天使の誘惑

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第9話

 扉が閉まる。部屋に入ると、すっと肩から力が抜けて着替えもせずにベットに飛び込んだ。酒の力を借りて政美は眠りにつこうとする。
 その時、電話のベルが鳴った。
受話器を持ち上げる気力も無く、そのままの態勢で聞くことにした。
 留守電になったままの電話は、何回かのコールの後、留守録に切り替わる。その電話から発せられた声に政美の身体が、ビクリと振るえた。
『菅野さん⋯俺、綾部です。何度も電話したんですけど、連絡つかなくて⋯⋯あの時のこと⋯すいませんでした。でも俺は後悔してないから⋯⋯俺は菅野さんが好きなんです。⋯⋯⋯⋯⋯菅野さん今度のレースに来て欲しい。お願いです! 菅野さん⋯もし菅野さんが来なかった時は、俺は諦めます。でもこれだけは判って欲しいんです。好い加減な気持じゃない!』
 ガチャンと音がして電話が切れた。
 綾部の言葉に政美が茫然とする。
 好き?
 綾部君が?
 ⋯⋯男の僕を?⋯⋯⋯⋯
考えが拡散して纏まらない。
 ぼんやりと部屋を見回すと、カレンダーが目に入った。
綾部がマジックで大きく丸をふった日付は、来週の日曜日だった。
『菅野さん今度のレースに来て欲しい。』
綾部の言葉が頭の中でリピートしている。
 否定するように頭を左右にふって、両腕で耳を塞ぐ。
何度も何度も⋯⋯⋯。
「絶対行かない! 僕は⋯綾部君が許せない」
自分に言い聞かせるように政美は呟いた。


  ■□■


 あの日以来、綾部からの連絡は無い。
日一日と過ぎていく時間に政美は縛られていた。
 絶対に行かない! と決めてはみたものの、自分の中でチクチクと心を刺すような痛みがあるのも事実だった。その痛みがなんなのか理解出来ないまま、カレンダーの花丸は明日になってしまった。
 トゥルルル、電話が鳴った。
ビクッと身体を縮めてた政美は、ゆっくりと受話器を上げた。
「はい⋯⋯」
「菅野?」
「西田⋯⋯」
 電話の声は、あの日気まずい別れかたをしたままの西田だった。
「⋯西田⋯あの時はごめん⋯」
「ああ、気にしてないよ。それより菅野、明日出てこれないか?」
「?」
「明日、こっちを立つんだ。当分帰ってこれないかもしれないからな」
「明日って⋯随分急な話しだよね」
まあな、と西田は軽く答える。
「どうだ? 何かほかに予定があるのか?」
 西田の言葉に、ふっと壁にかかったカレンダーに目を走らせた。
政美はそれを振りはらうように電話に向き直った。
「いや、見送りさせてもらうよ。同期の出世頭の栄転だからね」
「ばーか」
「で? 明日、何時なんだい?」
「一時過ぎの予定だから、昼飯でもゆっくり食おう」
「そうだな、じゃあ明日。駅のコンコースでいいんだろ、判った」
受話器を置くと、政美の部屋は静寂に包まれた。
 一人取り残されたような部屋の中で、ベットに寝転ぶ。
天井を見ていた瞳がぼやけはじめる。いつのまにか自分が泣いていることに政美は気付いた。誰が見ている訳でもないのに、両手で顔を隠して堪え切れない嗚咽を洩らしていた。
 自分の身の上に起った突然の出来事に、今だに心は傷ついている。
 それでも⋯⋯。
 一人になって思い出すのは、自分を『好きだ』と言った綾部の声⋯⋯、何度も何度も繰り返されるように頭の中で響いている。その度に政美は、頭を振って耳を塞ごうとする。
 決して消えるものでは無いことも判っていながら⋯⋯。
 その日は朝から雨だった。
天気予報も今日一日雨だと予測している。
 朝起きて一番にカーテンを引くと、窓の外はドシャ降りの雨で、西田の見送りでなければ、外出することは遠慮したいところだった。
 何時ものようにコーヒーをいれながら新聞を読む。特に変わった記事もなく、いつも通りの日常が過ぎていくようだ。
 政美は西田を見送りは、天気が悪いこともあってかなりラフな姿で出かける事にした。
 タンガリーシャツにジーンズ、そしてかなり明るめのジャケット、大学生に間違えられてもおかしくない服装だった。
 足早に雨の中を行き過ぎる人達をすり抜けるようにして駅へ着いた。
 濡れた傘を持ちながら、コンコースへと続く階段を上っていくと、フロアーの隅に在る喫煙場所で、西田が煙草をふかしながら政美を待っていた。
 背広を着た長身の西田は、同期とは思えないほど自身に満ちた男だった。
 ふっと顔を上げた瞬間、政美の姿を見つけ西田は手を上げて合図をする。
「すまない、待ったかい?」
「いや、余裕を見て出て来たからな⋯⋯⋯さてと」
そういって西田は灰皿に煙草を押しつけた。
「菅野、何か食べたいものあるか?」
「何でもいいけど⋯西田は?」
「そうだなぁ、この時間だから何処も混んでいるよなぁ。よし! 菅野隣のホテルのスカイラウンジに行こう。あそこならそんなに混んでいないし、ランチもあるだろ。この駅にも直結してるから便利だしな」
「ちょっと待てよ。西田⋯俺の服装に問題在りだよ。泊まり客じゃないんだから⋯⋯」
政美の言葉に、西田は政美の姿を上から下まで確認する。
「うーん」
政美が当たりを見回すと、視線の先にちょくちょく入る喫茶店が在ることに気付いた。
「西田、あそこに行こう」
政美が見つけたのは、駅に隣接している喫茶店で、待ち合わせによく使われる店だった。
「あそこだったら一応、味も保証するよ」
「よし俺は腹が減ってるんだ。きっと何食っても一緒だよ」
その言葉に二人は顔を見あわせて笑った。
 昼時にしては珍しく混んでいないその店に入ってメニューを選ぶ。
適当にランチを頼んで、二人は一息つく。
「西田の出発の日だっていうのに、あいにくの雨になっちゃったな」
「俺の日頃の行いが悪いってか?」
「誰もそんなこと言ってないだろ、西田」
くすくすと笑う政美を見て、西田はほっと肩を落とす。背広のポケットから煙草を取り出すと、火を着け、ゆっくりと煙を吐きだした。
「菅野、この前の⋯⋯」
 煙草を持った手を顎の辺りで軽く組んだ西田が口を開いた。
「⋯ごめん⋯⋯西田、心配してくれたのに⋯」
言葉を遮るように、政美が話す。
それでもうまく言葉にならなくて、途惑うように話し続ける政美に、西田は耳を傾ける。 十分程たった頃、ウェイトレスが注文した品を持ってやってきた。
テーブルに手早くセッティングすると、ウェイトレスは『ごゆっくり』と言い残して店の奥へ帰っていった。
 途中で途切れてしまった話しをどうしようかと政美が途惑っていると、西田はそれとなく、政美に食事を勧めた。
「俺、腹減ってるからさ」
「うん」
西田の言葉に助けられる形で、政美の話しは終わった。
 豪快に食事を始めた西田に遅れないよう、政美も料理に箸を付けた。
軽食を中心とした品揃えの喫茶店だが、味の方はなかなかいける口の部類に入る。
 その証拠に食の細い政美も、いつも以上に料理を平らげている。
久しぶりに食事をしたという感覚が、政美の正直な胃袋が知らせていた。
 食事も終わり、食後のコーヒーを飲んでいた時、新しいお客が店に入ってきた。
 二人連れの客は、興奮したような大きな声で、話しながら政美の横を横切っていった。
「今日のレース凄かったんだぜ! マスター、テレビ付けてよ」
「そうそうバイクレースで、綾部っていうレーサーが事故ったんだよ」
 その客の言葉に政美は耳を疑った。
スウッと血の気が引いて、指に力が入らない。
「菅野?」
 見る見る血の気がなくなって、政美の顔が真っ青になる。
その様子が尋常でないことに西田は気付いた。
「菅野⋯⋯大丈夫か?」
肩を掴まれて、初めて自分が貧血を起しかけていたことに気付いた。
「あ⋯ああっ、西田? 大丈夫だよ」
「ばっ、馬鹿野郎! 何が大丈夫なもんか! お前、真っ青だぞ」
 震えの治まらない指で前髪をかき上げながら、政美は西田に向き直った。
「平気だよ。⋯それより西田、そろそろ時間⋯⋯」
 政美の肩を支えている西田の腕にはめられている時計を覗き混みながら問いかける。
「⋯⋯馬鹿、そんなこと言ってる場合か!」
「大丈夫、少し休んでからタクシーに乗って帰るから⋯西田、列車の時間⋯⋯向こうに落ち着いたら連絡して⋯」
 政美の様子を気にしながらも、刻々と列車の時刻は近付いてくる。
これ以上ここに留まることは出来ない。
 西田は立ち上がって喫茶店のマスターに二、三言何か話すと、会計を済まし政美の元に戻ってきた。
「菅野⋯」
西田の声にうつむいていた顔を上げる。
「菅野、じゃあ俺行くから⋯⋯タクシーも十分ぐらいで予約車が来るから⋯。それに乗って家に戻れよ。判ったな」
「うん、ごめんな。西田」
「じゃあな。菅野」
そういって西田は店を後にした。
 店の中では客の要望に答えたマスターがテレビのスイッチを入れ、画面は丁度ニュースの時間だった。
 衝撃的な映像が何度も繰り返される。
入賞の期待を背負った綾部のピットが映っている。
 アナウンサーと解説者が話している。
 一斉にスタートした第一コーナーにらさしかかった時、綾部がバランスを崩して、転倒した。
 もの凄い勢いで綾部がバイクから放り出される。
 その画面をリピートされたとき、政美は息を飲んだ。
 続いて画面にでてきたニュースキャスターが綾部の収容された病院名と容態を報じる。青冷めた顔で食い入るように画面を見続ける政美に、タクシーが来たことをマスターが告げた。西田が店を出て、間もなくのことだった。
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