天使の誘惑

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第8話

『何故? どうして?』
政美には判らなかった。
 息を詰めると、身体の奥から引きつるような痛みを感じる。
何度も止めてくれと叫んだ咽喉は乾ききり、時折込み上げてくる吐き気が政美を支配していた。
 いつしかコンクリートの床に、雨の様に広がる政美の涙に綾部が気付く。
 さっきまでの獣じみた⋯まるでなぶり尽くすような激しさとは違い、綾部は政美の涙の後をたどるようにやさしく啄むように口付けを送る。
 そっと触れた綾部の口唇に、政美はビクリと身体を振るわせた。
 綾部はゆっくりと政美の身体を起すと、側に落ちているシャツを拾い上げ、さっきまで自分が蹂躙しつくした身体に掛けてやる。
「⋯⋯菅野さん」
 シンと静まりかえったピットの中に、綾部の声だけが響いていた。
 身じろぎもしない政美の顔は、まるで心の壊れた人形のようで、綾部の心を凍らせる。
 何時しかピットの外では激しい雨と雷が鳴っている。
焦点の定まらない政美の衣服を整えてやると、綾部は抱えるようにして車に連れていった。 扉を開けて助手席に政美を座らせると、自分が濡れるのも構わずに、シートベルトを締めてやる。
 完全にはまったのを確認すると自分も反対側から車に乗り込んだ。
政美は綾部が座らせたままの状態で顔を外に向けていた。
 沈黙の時間が流れ、車は政美のマンションの前に止まった。
雨は益々激しく降りつけ、ワイパーは激しく動き続けている。
「菅野さん」
 政美の肩に触れようとした綾部の手を打ち払って身体を引き、ドアロックを開けると外に飛び出した。
 急激に動いたために、身体の奥から突き抜けるような痛みが走った。
「菅野さん!」
「来るなっ!」
 政美を呼んだ綾部の声を遮るように、拒絶の言葉が響いた。
瞬間、綾部の身体が動かなくなる。
 ドシャ降りの雨の中、政美は綾部と視線を交じわすことなく、マンションの中に駆け込んでいった。



 後から追い掛けられているかのように、政美は身体の痛みを堪えて、階段を掛け上がる。 何度も何度も階段から足を滑らせ、壁を頼るように最上階の自分の部屋の前まで帰ってきた。
 ポケットの中の鍵を取りだし、振るえる手で鍵穴に差し込もうとするが、それもままならない。
 単純な事さえすることの出来ない自分に悔し涙が溢れてきた。
 ガチャと音が響いて部屋のドアが開くと、素早く部屋の中に滑り込み、後手に扉を締め背中を添わせる。
 自分の部屋に戻ってきた事にホッとしたのか、政美は力が抜け崩れるようにして座り込んでしまった。


 ■□■


 あれから三週間、何時ものように平穏な日々が過ぎている。
 この不況下にも関わらず、会社の方も順調な業績を伸ばし、政美は晴れて、前から希望していたセクションへと移動が決まった。もともと営業には不向きだったが、新入社員への会社の洗礼ともいえる営業部への出向は、善し悪しもなく殆ど通過していく。
「菅野!」
 向こうの方から声を掛けてきたのは、同期入社の西田和生だった。
 入社以来、なにかと二人で食事に行ったり、酒を呑みに行ったりと、交流が続いていた。「西田⋯⋯」
「どうした? 最近元気無いじゃないか。せっかく希望していたセクションに移ったんだろ?」
「ああ、覚えることが沢山あってさ⋯」
「ふーん」
「ところで何か用事か?」
 急がしい西田が、政美に声を掛けるなんて、最近では珍しい事だった。
「ああ、今日呑みに行かないかと思ってさ」
久しぶりの誘い。それに部屋に帰ってしまえば、一人で考え込んでしまうのも目に見えている。
「そうだな、たまには良いか」
政美はあっさりと、了承した。
「よし決まりだ。いつもの『MOON』で八時に⋯」
了解、と合図して政美はそのまま歩みを進めた。



 定時を知らせるチャイムが、会社中に鳴り響く。
「おさきに失礼します」
フロアーに女子社員の帰りの挨拶をし、足早に帰り支度を始める。
そんな様子を横目で見ながら、政美も帰り支度を始めた。
「あれっ、菅野さん珍しいですね。もう帰り?」
「ああ、ちょっとね」
そう言いながら、机の上に在る資料を片付ける。
「へぇ⋯彼女いたんだ」
「違うよ」
困ったように答えた政美に、同僚は「いいってかくさなくったって」と言い残して自分の仕事に戻っていった。
 ふうっと溜息を洩らして、政美は会社を後にした。



 繁華街から少し離れたところに、『MOON』がある。
 打ちっぱなしのコンクリートと暖かな煉瓦色の壁に、粋な中間色のライトが扉の前まで続く。
 外からは中が見えない様にぐるりと壁に取り囲まれている。
 ゆっくりと歩みを進めて、扉を開けると、常連客ばかりの小さなフロアーが目の前に広がった。西田に連れてこられてから、政美にとってもかなり気に入った店の部類に入っていた。
 待合せの時間よりかなり早目に店に付いた政美は、あまりお酒に強くないのだが、意外にも甘味でごまかされる様な強めのカクテル、『モスコミュール』を頼み、カウンターに座った。
 長めのグラスにクラッシュアイスが、カラカラと音をたてる様に浮んでいる。その氷の動きをじっと見詰めていると、考えたくないことまで、考えてしまう。
 あの日以来、毎晩のように留守電に綾部のメッセージが残っている。
 びしょぬれで帰ったあの日、玄関先で踞って泣いた。
何時間もそこから動けず、涙がおさまりかけたのは真夜中だった。
 痛む身体を騙し騙し、立ち上がらせ、風呂場に向かった。
 熱い湯を頭から浴び、身体の緊張が解けるにしたがい、涙腺が緩んで涙が頬を伝った。
 その時の涙で潤んだ視界を見ているように、グラスの中の液体がゆらゆらと揺れている。


「菅野!待たせたな」
 政美の思考を突然遮ったのは、西田だった。
時計を見ると待合せの時間から、三十分も過ぎていた。
 多分その為に先を急いで来たのだろう、西田の息は上がっている。
「マスター、水割り」
カウンターの中に声を掛けてから、政美に向き直った。
「大丈夫か?」
「ああ、出掛けに部長に捕まってな⋯」
髪をかきあげながら、すまないと西田が謝る。
「気にしなくていいよ。それより部長、大事な用事じゃなかったのか?」
心配そうに政美は西田に問い返した。
「⋯んっ⋯菅野には今日話そうと思っていたんだ」
「?」
 政美はうつむいている西田の表情を覗き込んだ。
「俺、来月一日付で転勤になる」
「転勤って⋯⋯」
「うん、俗に言う栄転ってやつだな」
「すごいじゃないか! おめでとう!」
ありがとう、と照れ臭そうに西田が言う。
「で、どこに行くんだ?」
「大阪⋯」
「へぇ、流石だな。同期の中でも出世頭だなぁ。⋯⋯そうだ、乾杯しよう西田」
右手にグラスを持って、目の位置程の高さで、カチリと音をたてた。
 一気に飲み干した西田とは対照的に、政美は口を付けたグラスをテーブルへと戻した。
 いろんな事を話しながら、グラスを傾けるうちに、酒に弱い政美は酔いがまわっていた。 席を立ち上がりかけた時、足にきてしまった。
 ふらつく政美を西田が支えようとした時、差し出された腕がバシッという音と共に、拒まれた。
「菅野⋯」
「あっ⋯ごめん」
 殴られた腕を見詰める西田、そして殴ってしまった政美も自分のやった事が信じられなくて茫然としてしまった二人は、動くことが出来なかった。
 その沈黙を破ったのは政美だった。
「ごめん、西田。僕⋯⋯」
 そういって政美は、店を後にした。
なんでも無いように振る舞ってはいたが、身体が覚えていた。
人に触られる事に極度の緊張と、嫌悪を感じる。
 まだ、覚えているのだ。
 綾部の手の感触を⋯⋯。
身体の痛みは消えても、心の傷は癒えないのだ。
 何故、綾部があんな事をしたのか判らない。
ほんの少し前までは、楽しい時間だけが過ぎていた。
 久しぶりに出来た新しい友人を歓迎していた。
 それなのに⋯⋯怒りと口惜しさで胸の中が一杯で、食事も咽喉を通らない。
 ここのところ自分の体重が徐々に減っているのは判っている。
これ以上減り続ければ、体力の無い自分にとって、けして良いことではないことも分かっている。
 それでも咽喉に通っていくのは、水とアルコールのみ⋯⋯。
 飲んでも飲んでも乾きが癒えない。
その乾きが何なのか、政美には判らなかった。
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