天使の誘惑

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第6話

 目が覚めたのは身体の痛みと、カーテンの隙間から洩れる朝の光りのせいだった。
座ったままの姿勢で眠っていることに気付いたのは、うっすらと目を開けて、部屋の様子が自分の部屋と違い、それでも見なれたような概視感を覚えたせいかもしれない。
「⋯⋯っ、痛ってぇ」
肩と首が思ったよりも多くの負担がかかっていたのだろう。
 首を回すことが出来なかった。もしかして筋を違えたのかとヒヤリとしたが、そういうことではないらしい。
綾部はほっと息を付いた。
 部屋の様子から見て、昨日あのまま政美の部屋で寝入ってしまった事に気がついた。家人を探して、当たりを見渡せば、自分の直ぐ側に政美の顔が在る。
 ぐっすりと安心しきった表情で眠りに付いている政美は、とても自分より年上とは思えないほど、幼い顔をしていると、綾部は思った。
やわらかそうな漆黒の前髪が睫毛にかぶさるほどの長さで、色白の顔を覆い隠そうとしていた。
 そっと差し出した綾部の指が、その髪を掻き上げ、幼さの残る顔を覗きこんだ。
起きている時には光りを全て呑みこんでしまう様な鳶色の瞳が、血管が透けてみえそうなほど色白な瞼に覆い隠されている。鼻筋の通ったラインを下にいくと、白い肌に対峙するような紅い口唇があった。
 綾部の指は額から鼻筋を通り、やがて紅い口唇に辿り着いた。
人差指を上口唇と下口唇の間にほんの少しだけ、差し込んでみる。
ふわりとした熱が綾部の指を刺激し、身体の中からいいしれぬ熱が、這い上がってくる。
 甘い痺れを感じた指を抜取り、自分の口唇に寄せる。
綾部はそのままの状態で時間が過ぎゆくのも忘れ、ただじっと自分の心の中で自問自答を繰り返していた。
「⋯んっ⋯⋯」
うっすらと睫毛をゆらしながら、政美の意識が覚醒した。
「あっ⋯綾部君、おはよう」
ドギマギする心臓の音を隠しながら、綾部は政美に挨拶を返す。
「おはよう」
「起きてるんなら俺も起こしてくれれば良いのに⋯」
「あんまり気持よさそうだったから」
頭を振るようにして政美が起き上がると、台所へ向かった。
「綾部君、酔い覚めてる?良かったらシャワー使ったらいいよ。その間に朝食の用意しておくから」
「あ、ああ⋯⋯」
「どうしたの? 綾部君⋯何か変だよ」
「何でもないよ。じゃ⋯じゃあシャワー借りるよ」
そそくさと浴室に駆け込む綾部を不思議そうな視線で見送ると、政美は朝食の準備に取りかかった。
 何時ものようにコーヒーを沸かし、トーストを焼き、野菜を切ってスクランブルエッグの横に添える。
テーブルの上に全ての準備が整った頃、綾部が浴室から出てきた。
「グッドタイミングだね。さあ、席について」
「ああ」
コーヒーをカップに注いで綾部の前に置くと、政美も席について食事を始めた。
「綾部君、今日はどうするの?」
「うん、とりあえず家に帰って寝直すよ」
「そう⋯」
少しがっかりした様に政美は肩を落とした。
早々と食事を済ませ、綾部は帰り支度を始める。
ふと手を止めて、綾部は政美に向き直った。
「菅野さん、昨日楽しかった?」
「昨日も俺、言わなかった?楽しんだって」
「また付き合ってくれるかな」
綾部は何時になく小声で、政美に問いかけた。
「もちろん、俺で良いならね!」
「ありがとう、管野さん」
顔を上げて滅多に人に曝すことの無い極上の笑みを、綾部は政美に向かって投げ掛けた。
「今度は何時なんだい?出来ればあそこのカレンダーに丸でも付けておいてくれると助かるんだけど⋯⋯」
そう言いながら政美は太めのマジックを綾部に渡した。
 カレンダーに向かって綾部がマジックで大きな丸をふっていく。その中でも殊更大きく丸に飾りの付いた丸を、俗に言うと花丸と言うらしい。
「その意味は?」
「うん、これは俺が目標にしていた国際レースなんだ」
「へえ〜、じゃあ、綾部くんはこれに出るんだ」
「そう。だから菅野さんに来てほしいんだ」
へへっと照れくさそうに、笑うその仕草がなんだか微笑ましかった。
じっと見つめている政美の視線に、
「じゃあ、俺、そろそろ帰るよ」
「え、もう?」
「うん、また来週⋯⋯」
バタバタと慌てて様子で、綾部は帰っていった。
 一陣の風が過ぎ去ったような奇妙な寂しさ、政美はいつもの何の変哲も無い一週間が始まるのを感じ始めていた。





 何度か綾部の練習走行に付き合っているうちに、チームの中でもかなりの人に政美は覚えられ、また、可愛がられていた。
 曇った天候を写したように綾部の乗るバイクの調子も今一つで、そのデーターを処理するコンピューターにも支障をきたしていた。
「まいったなぁ。やっぱり専門家を呼ぶしかないのか」
いつもパソコンを叩いて、データー処理しているスタッフの口からお手上げ状態の愚痴がこぼれた。
 それが耳に入った政美は、それとはなしにスタッフの扱っているパソコンを覗きこんだ。「⋯⋯これなら判るかなぁ⋯」
「なに? 菅野君、パソコン扱えるの?」
「ええ、とりあえず⋯ちょっといいですか?」
 覗きこんでいたはずのパソコンの前に座りこみキーボードを叩く。
 真剣な表情で画面を見ながら、プログラムを一行ずつチェックしていく。
「ここでエラーが出るんですね」
「そうなんだ⋯菅野君、判りそうかい?」
「そうですね」
答えながらも視線は画面から離れず、チェックを繰り返す。
「あっ!」
政美の声に外野の視線も集まる。
「ここだ⋯ちょっと待って下さいね。多分ここを直せば、大丈夫の筈ですから⋯⋯」
カチャカチャとキーボードを滑る指がプログラムを修復していく。
「よし!」
 肩の力を抜いて、エンターキーを押すと、今まで始動しなかったプログラムが稼働を初め、データーをトータル的にモニターに写しだした。
「すごいな、菅野君。趣味でやってんの?」
「いえ、職業柄っていうやつです」
「にしてもすごいなぁ」
 感心するようなスタッフの中から、岡部由美が現れコーヒーの差し入れをする。
「由美ちゃん、菅野君だけのサービス?」
「勿論、私⋯賢い人が一番好きだもの⋯」
そんなジョークを飛ばしながら政美の首に腕を回した。
「まいったなぁ」
 スタッフの一人が、素っ頓狂な声を上げて周りを盛り上げるように笑わせる。それにつられるように、その原因ともなった二人もお腹の底から起る笑いを押さえることが出来なかった。
 そんな様子をコースから帰ってきた綾部が、少し離れた所から様子を伺っていた。
 岡部の腕を自分の首に巻きつけたままで、楽しそうに笑っている政美の姿が綾部の目に入る。そんななにげない筈の様子が綾部の胸の奥底で、キリキリと音を立てて引っ掻くような傷跡を付ける。そしてその原因は岡部ではなく、菅野である事が綾部の気持を動揺させた。
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