天使の誘惑

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第5話

 そこへタイムを報告に彼女がやって来た。
「綾部さん、タイムの方ですけど⋯」
「うん?」
チラリと上目づかいに綾部を見ながら、タイムを報告する。
「そうか⋯まあまあってとこだな」
「そうですね」
「あっ管野さん、彼女のこと紹介するね」
綾部は思いだしたように、政美に視線を向けて紹介を始めようとした。
「そういやぁ、ちゃんとした自己紹介がまだだったね」
「そうですね」
紹介を始める前に交わした彼女との会話に、綾部は不思議そうな様子で政美をじっと見遣る。
「なんで?」
その綾部の疑問に答える様に、政美が口を開いた。
「うん⋯綾部君がコースに出ている時に、彼女が飲物を持って来てくれてね⋯そこで少し話したんだ。でも名前聞くのすっかり忘れてたよ」
あんぐりとした様子で綾部は政美を見ている。
「とっても管野さんらしいよ。営業先でも名前聞くの忘れるんじゃない? 俺、そんな気がするんだけど⋯⋯」
理由を聞いた綾部の第一声だった。
「そ、そんなことあるわけないだろ⋯⋯それより彼女の事、紹介してくれるんじゃなかったの? 綾部君」
「そうそう、彼女うちのチームの今年のレースクイーンで、時折タイムキーパーも引き受けてくれる岡部由美さん。で⋯こっちが知人の管野政美さん」
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
カシャ⋯⋯⋯⋯。
シャッターの降りる音で三人の視線が音の方に向かった。
「俺も紹介してくれないのかい?」
「宗一さん!」
カメラを構えたまま、口の端でにっこりと笑う。
「宗一さん、どこ行ってたんですか? マネージャーが探してましたよ」
「まあまあ⋯⋯浩司くん、彼が管野君?」
「あ⋯そう⋯管野さん、うちのチームの専属カメラマンで結城宗一さん。結構、なんでも相談できる叔父さんなんだ」
「だれが叔父さんだって⋯⋯まったく! 管野君宜しくね」
「こちらこそ」
ぷっと突然、綾部が吹き出す。
「な、なに綾部君?」
「だってさ、管野さんさっきから同じ挨拶してるの気付いてない?」
「えっ! そう? そんなことないと思うけど」
まあいいんじゃない、そう言って結城はカメラのファインダーを政美に合わせる。
「管野君、君、目が悪いの?」
結城の言葉にそこに居た全員が驚く。
「えーっ! 管野さんって目悪かったの?」
綾部の声だった。
「んっ、実はちょっとだけね」
「やっぱりね」
うんうんとうなづくような仕草で頭を振る。
「でも何で判ったんですか?」
「写真家を甘く見ちゃいけないよ。その焦点の定まらないような視線、視力の悪い人特有なんだ」
へぇっと感心するように、政美は納得した。
 それから一時、色んな事を話していた四人のところへチームマネージャーがやってきた。「綾部君、今日のセッティングこれ以上動かないから、今日は上がっていいよ」
「やったー!」
「結城さんと岡部さんはキャンペーンの打合せがあるのでホームのA会議室に三十分後に集合して下さい」
二人がうなづくのを待って、返事を確認すると戻っていった。
「それじゃあ、此処で解散としましょうか」
結城の言葉に、各々の仕事場所の方向に別れていった。
 残ったのは、綾部と政美の二人。
「じゃあ、車のところで待っててくれるかな。着替えてくる」
「うん」
「あっ管野さん。車のキーはピットの出入り口近くの椅子にかけてある上着のポケットの中にあるから⋯上着ごと持っていっててくれる?」
「判った」
キーの場所を伝えると綾部は足早に控室に向かった。
政美の方は、ピットの隅にある椅子の上にかかっている上着を持ち、駐車場へと向かった。 綾部の車の所までやってくると、政美は運転席側のドアを開け、乗り込んだ。
 シートに深く腰を下ろしてみると、政美の足先はアクセルに届かない。
自分もそう大きい方ではないが、人並みの男並みの身長を持ち合わせていると自負していたものが、打ち砕かれてしまった。
「やっぱり綾部君って、大きいんだよね」
ふうっと溜息を付きながら、一人言が洩れる。
 別に悔しいというモノでもないが、政美の心の奥に自分でも判らない気持が存在しているらしい。そのまま凭れ掛かるように、ハンドルに腕と顔を預けた。
 コンと窓を叩く音がして、政美は顔を上げる。
窓の外に綾部が立っていた。
慌てて身体を起こすと、ドアを開ける。
「管野さん、疲れちゃった?大丈夫?」
心配そうな様子で、綾部は政美に声を掛けた。
「いや、大丈夫だよ。ミッション車が懐かしくってさ⋯⋯なにせ車校以来だからね」
「懐しついでに、管野さん運転していく?」
綾部の言葉に大袈裟といえるほど、政美は顔を横に振った。
「勘弁してよ。ここ何年も車を運転したこと無いんだから⋯」
政美は苦笑いをしながらシートから腰を上げ、綾部に席を譲った。車の前を過って、反対側のシートに腰を落ち着ける。
 シートベルトを締めて、少しばかりリクライニングを倒す。既に政美と入れ替わりに、運転席に滑りこんでいた綾部が静かに車を発進させた。
「一日付き合わせることになっちゃって⋯⋯」
心配そうな声色で綾部が話しかける。
「そんなこと⋯とっても楽しかったよ。色んな人と知り合いにもなれたし、綾部君がどんなに凄い走りをしているのかも判ったし⋯ね」
「それって暴走してる。とか思ってない?」
「当たり!」
管野さんにはかてないよなぁ、と言いながら綾部は頭を掻いた。
「管野さん、食事していこうか?」
「うーん、それもいいけどもし良かったら家に来て食事にしないか?昨日買物に行ったばかりだから、何でも作れると思うよ」
「誰が作るの?」
「もちろん綾部君と俺」
「えーっ!」
「たのむよ。このままにしてたら冷蔵庫の中のものが腐っちゃうよ。毎日、夕食作れればいいんだけど、そうもいかなくってさ」
「うーん」
 唸っていたわりには、結構あっさりと綾部が折れた。
とりあえず“ビールも飲み放題”という条件で手を打ったので、二人は近くのコンビニに寄ってビールを仕入れて帰ることになった。
 車を通行の邪魔にならない路肩に止めると、ビールを持って階段を上がった。
部屋の中にどっと入り込むと、早速、料理を始める。
 もちろん料理と言っても、材料を切って鍋に投げ込むといういたって簡単な鍋料理ではあったがビールを飲みながら鍋を作っていくうちに、綾部は完全に酔いが回ってしまった。「綾部君、綾部君」
何度か声を掛けてみたものの、返事は無く、返ってくるのは安らかな寝息だけだった。
幸い明日は日曜日なので、政美はこのまま綾部をここに寝かせておくことに決めた。
 自分のベットに凭れ掛かるようにして眠っている綾部に、モノ入れから取りだしてきた客用の毛布を掛けてやる。安らかな顔で眠っているのを確認してから、政美は食器の片付けを始めた。
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