天使の誘惑

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第4話

「じゃあ、出発!」
綾部は政美がシートベルトをするのを確認してから、ギアをニュートラルからローへ入れ車を発進させた。
 綾部の車は、ミッション車でクラッチを踏みながらシフトを上げていく。
一応、免許は持っているものの、免許を取って直ぐにAT車を運転していた政美には、多分、運転は出来ないだろう⋯⋯それにもまして、ここ何年か運転をする機械がなかった為に、もしかしたら自分はペーパードライバーと化している可能性も高い。
 滑るようなシフトチェンジをしながら運転をしている綾部を見詰めながら、政美はそんな事を考えた。
「なに?なんか俺の顔についてる?それとも俺って管野さんが見惚れるくらいいい男?」
政美の視線に気付いた綾部が、運転をしながら軽口をたたく。
「確かにいい男かもしれないね⋯⋯」
「やっぱりね」
言った筈の本人が、言ったと同時に吹き出してしまった。 スポーツタイプの車は車体が低く、乗っている人もかなりかっこ良く見えるものだが、車の中はと言えば、大笑いしながらハンドルを握る男と、その横で華奢な感じの男が笑っているのだから困ったものだ。
 そうこうしているうちに、車はレース場の中にある駐車場へと滑り来んだ。
 車を降りて、警備員に軽く会釈をしながら場内へ入っていくと、ちょっと大きめの車と、何台かのバイクが並行して置いてあった。
「おはよう」
綾部が声を掛けて入っていくと、仕事を休むことなく「おはよう」と此処に居る全員から声が帰ってくる。
一番奥で指示をしているサングラスをしている壮年の男が、綾部に気付いて顔を上げた。
「監督、おはようございます」
「よお」
陽気に声をかけた監督と呼ばれる男の前へと、綾部は政美を連れていった。
「監督、管野政美さんです」
「いらっしゃい、楽しんでいって下さい。此処に居るのはみんなバイクの好きな奴ですから⋯」
ニッコリと笑みを見せながら、右手を差し出した。
「こちらこそ⋯図々しく見学に来てしまって申し訳ありません。邪魔にならないよう気を付けますので⋯」
政美は笑顔で差し出された手に答えた。
「綾部、早速で悪いが、一度コースに出てくれ。整備の具合を見たい」
挨拶を終え、監督は向きを変え、綾部に声を掛ける。
「はい⋯⋯それじゃあ管野さんゆっくりしててよ」
監督に向かって返事をした綾部の顔は、政美が見る初めての顔だった。
「がんばってね」
着替えに向かう綾部に、エールを送る。
振り向きざまに、綾部は政美に向かってにっこりと微笑んだ。



 バイクに乗った状態で、綾部は監督と整備の方から指示を受けている。
納得したのかうなづきながら再確認をしているようだ。
 監督に大きくうなづいた後、ヘルメットのシールドを下げ、正面を見詰める。
ふと、目の端に止まったのだろうか、少し後の方で様子を見ていた政美の方を向くと、左手の親指を立てて合図をする。政美は手を振ってそれに答えた。
視線を正面に向けると綾部はエンジンの回転数を上げる。
 うなるような音をさせ、スロットルを全開でコースに飛び出ていく。
 スピ−ドにのった綾部のバイクは風の様に走っていく。
 じっとその姿を見ていた政美の側に、ジュースの入った紙コップを持って一人の女性が近付いてきた。
「はい、どうぞ」
「あっ⋯どうも」
 その女性はチームのメンバーでレースクイーンといわれる女性らしい。
ストレートの髪と整った目鼻立ち⋯⋯確かに美人と言えるだろう。
「管野さん、でしたよね」
 突然、自分に向かって会話が始まる。
「はい」
「綾部君と仲が良いのね。彼⋯普段はどう?」
「どうって?」
「普段はどんな感じ?」
そう聞かれて、政美は困ってしまった。
 まだ知り合って僅かな付き合いだった政美には、綾部の生活など深く知っているわけではないし、まして普段がどんなものなのかもよく判らなかった。
 黙りこんだ政美に彼女は追い討ちを掛ける。
「管野さん、綾部君と親しいんでしょ?」
「それをいうなら、チームの人の方が⋯」
「だって⋯⋯綾部君が初めてプライベートに人を連れて来たのよ」
ああ、彼女は綾部が好きなのだ。初めて逢った自分に形振かまうことなく綾部の事が知りたいと思っているのだろう⋯⋯そんな様子が二、三言話しをするだけで、政美にも判ってしまった。
「ごめん、期待には添えないよ。俺はほんの一週間、二週間前に知りあったばかりなんだ。それも偶然にね」
「⋯⋯⋯」
彼女は政美の言葉を聞いて、がっくりと肩を落としてしまった。
「そうか⋯それじゃあ仕方ないわよね」
「ごめんね」
「ううん、いいの。私の方もちょっと管野さんには失礼だったわよね。⋯⋯でも余程、管野さんが気にいったのかしら⋯綾部さんは」
「どうだろうね」
くすっと笑った彼女の顔は、とても魅力的だった。
 何週かバイクを走らせた後、綾部はピットに戻ってきた。
なにごとか監督と整備の人に話した後、政美に声を掛けてきた彼女にタオルとスポーツドリンクを受け取る。その足でピットの中の邪魔にならないところで控えている政美の所へやってきた。
「どうだった、俺の走り?」
「凄いね。すっごく速い」
「そうだろ」
「うん⋯」
政美は素直にうなづく。
「でも⋯」
「でも?」
「良かった。あの勢いで俺が引かれていたら死んでたよね?」
「管野さん⋯俺のこと信用してないだろ」
ムッとしたように声を荒げる。
「そんな事ないんだけどね」
ぺろりと舌を出して政美は答えた。
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