天使の誘惑

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第2話

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 あの日の突然の出会いから、一週間が過ぎた。
 二、三日してあの公園の前を通ったときには、置いてあったはずの綾部のバイクが無くなっていた。多分、足の調子も良くなって、バイクを取りに来たのだろう。
そんな事を思いながら政美は家路についた。
 いつものコンビにで買物を済ませ、明日の休みをどう有意義に使おうかと考えながら、公園を横切って自分のマンションへと向かう。
 政美の歩みにあわせて、コンクリートの無機質な音がついてくる。
最上階の部屋に行き着くまで、いつもの様にリズムにあわせ、軽い足取りで掛け上ってきた。つめていた息を思いっきり吐き出して顔を上げると、自分の部屋の前に人影があった。かなり目を細めてみたが、そこに立っているのが誰なのか判らない。
 会社に入ってからは、特に視力が悪いわけではない(医者の言うところの仮性近視だそうだ)ので、普段は眼鏡を掛けていない。もちろん仕事の為でもある。
 営業の際、眼鏡を掛けていると、かなり堅く見えてマイナスポイントになると入社早々、上司に注意を受けのだ。
 もちろんコンタクトを使用している先輩たちもたくさんいるが、ああいうモノを自分の身体の中に入れるということに、とてつもない恐怖を感じる。
「菅野さん? なに一人で考え込んでるの?」
 何時の間にか人影を見詰めながら考えを込んでいた事に気付いたのは、聞き覚えのある声を耳にした所だった。
「えっ? あ⋯綾部君?」
「うん!」
政美は慌てて綾部の側に駆け寄った。
「えーっ! 綾部君もう大丈夫なの?」
「ああ⋯ほらっ、ぴんぴんしてるだろ」
そう言って、怪我をした方の足を軸足にして、ピョンピョンと飛んで見せた。
「⋯と⋯⋯とりあえず、部屋に入って!」
 慌ててコンビニの袋を腕に掛けるようにして、背広のポケットの中にある鍵を探した。
ガチャガチャと音を立てながら鍵を開けると、綾部を部屋の中へと促す。
「コーヒーで良い?」
「うん」
進められるまま、部屋に入る。
 勝手知ったる他人の部屋と言われるように、綾部は自分の落ち着ける場所を探しだしさっさと座りこむ。
 綾部の後から部屋に入った政美は、着ていた背広を脱いで直接台所にたった。
 しばらくするとカタカタと音をたてながらコーヒーを入れて綾部のいる部屋へとやって来た。
 部屋の様子をじっと見詰めながら考え込んでいた綾部の前に、コーヒーを差し出す。
「どうしたの?真剣な顔して⋯」
「何でもない」
綾部は政美の手からコーヒーを受け取ると、ゆっくりと口をつける。
「あ⋯つっ」
「気をつけて!沸かしたてなんだから」
心配そうに覗き来んでいた政美と綾部の視線が合う。
 じっと見詰めつづける綾部から先に視線を反らしたのは、政美だった。
「足⋯本当に大丈夫?もう痛くない?」
カップに入った琥珀色のコーヒーを見詰め、視線を合わすこと無く政美がぽつりと言葉を洩らした。
「うん⋯⋯もう大丈夫。かえって菅野さんに心配掛けちゃって⋯⋯」
「そんなことない!」
政美は綾部の言葉に、もの凄い勢いで反論した。
「⋯⋯心配掛けたお詫びといっちゃなんだけど、一度、俺のレースを見に来ない?」
「えっ?」
突然の誘いに、政美は意外そうな声を上げた。
「あっ⋯全然興味が無いんなら仕方ないんだけどね」
「そんな事ないよ。レース場って一般の人が入れない所があるんでしょ?そこにも入れるの?」
「うん、ピットの中は俺と一緒に入ればOKだよ」
綾部は政美にウィンクを投げ掛ける。
 思わずその仕草にドキリと胸が高鳴った政美は、それを振りはらうように、綾部に向かって大きくうなづいた。「よし!じゃあ急なんだけど、明日空いてる?」
政美は綾部の意気揚々と顔を覗き込む行動に驚いた。
「特に用事はないんだけど⋯」
「明日、ちょっとした走行練習をするんだ。管野さん、一緒に行こう」
「うっ⋯うん」
勢いに押されて返事をする。
「やった!」
身体で喜びを表現する綾部を見て、政美は微笑んだ。
「じゃあ、明日⋯朝七時頃迎えに来るから、準備しておいて」
「迎えってバイク?」
ちょっと不安そうに政美は尋ねた。
「ああ、大丈夫。車で来る」
そう、と大きく息を吐きながら安心したように方の力を抜く。
「そんなに俺、信用無いの?」
綾部はちょっと不服そうに政美に視線を向ける。
「えっ?いや、そうじゃなくて、この前のこともあるし」「なんかひっかかるなぁ⋯」
ははっ、と笑って政美はごまかした。
「まあいいか⋯じゃあ、雨天決行って事で宜しくね」
手に持っていたコーヒーを一気に飲み干すと、傍らにあるガラステーブルにカップを置くと、立ち上がった。
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