天使の誘惑

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第10話

 いくら駅に隣接しているとはいえ、このドシャ降りの雨ではタクシーは捉まらなかったろう。政美は西田の心使いに感謝した。
 タクシーに乗り込むと、行き先を告げる。
 車が発進して、信号を曲がったところで政美は運転手に声をかけた。
「すいません。行き先変更して貰えますか?」
「?」
 ちょっと迷惑そうに政美を見ると、運転手は不機嫌な声で『何処?』と問いかけた。
「聖リーフ病院まで⋯」
それだけ告げると政美は、座席に倒れこんだ。
 あんなに許せないと思っていた綾部の転倒シーンを見て、政美の中で何かが変わろうとしていた。
 政美は血の気がスウッと引くような感覚を、二度と体験したくないと思った。
 運ばれていく綾部の姿が瞳に焼き付き、その状況を思い出すだけで歯の根が合わなくなる。まるでショック症状の様に、身体の奥底から這い上がるような震えを止めることが、政美には出来なかった。
 押しつぶされるような不安が政美の心を鷲掴みにした。
 激しい雨の中を一台のタクシーが、病院へ着いた。
 病院の周りには、カメラを持った報道人らしき人達が屯している。
人垣をぬって、政美は病院内へと入り込んだ。
 病院の中は午後の診察を待つ病人で溢れかえっている時間のはず⋯⋯。
 報道人が詰めかけていたため、ほとんどの人が病院内への立入を禁止されていたのだが、タクシーで病院前に着いた事と、真っ青な顔色をした政美の様子を見て、病院の関係者が病人と思ったらしい。
 意外にもすんなりと病院内に入り込んだ政美は、一階の薬局横の公衆電話で話しをしているピットクルーに出会った。
 声を掛けようと近付く政美に気付いた顔見知りのピットクルーは、驚いた表情をしたまま受話器を置いて近付いてきた。
「菅野さん!」
「浦部さん⋯⋯綾部君は?」
「今、いま菅野さんのところに連絡を入れていたところなんですよ! ずっと留守電になっていてどうしようかと思って⋯⋯⋯⋯でも、菅野さんどうして?」
「⋯⋯」
浦部の言葉に政美は答えられなかった。
「まあいいや! 菅野さん、綾部のところへ⋯⋯」
慌てた浦部の様子を見て、政美は眉をひそめた。
「綾部君の容態、そんなに悪いの?」
「俺にはなんとも⋯ここから上に行って下さい。監督も結城さんもみんなそこに居ますから⋯」
 政美は浦部の言葉に従って、立入禁止のフロアーに向かった。
 上りのエレベーターを待っていられずに、階段を駆け上がる。
静かな病院内で政美の足音だけが響く。
 最後の階段に足をかけた時、政美の姿に気付いた結城が近付いてきた。
「菅野君、連絡がついたんだね」
「あ⋯いえ⋯⋯」
「? ⋯とりあえず病室に入って」
「容態は?」
 心配そうな政美の問いに結城は答える。
「肋骨にひびがはいってる。それと左足の骨折⋯」
そういいながら結城は病室の扉を開ける。
 白い部屋の壁に冷たさを感じる。
 窓のカーテンは開け放たれていたが、窓には冷たい雨がうちつけるだけだった。
その中央のベットに綾部は眠っていた。
 『二度と逢うまい、彼は許せない』そう堅くなに思っていた心が、ベットの上に横たわっている綾部の姿を見た途端、吹き飛んでしまった。
 結城がいった骨折の状態は、身体にかけてある薄いシーツによって隠されていたが、ヘルメットで保護されているはずの整った顔に残る痣と、口元の切傷が事故の酷さを感じさせる。
「もうすぐ薬が切れる頃だから、よかったらこのまま病室で浩司の様子を見ててくれないか?」
「⋯でも⋯⋯⋯」
「頼むよ。菅野君。私は監督とチームスポンサーの所へ連絡を入れなくちゃならないんだ頼むよ」
 結城の言葉に政美はゆっくりとうなづいた。
『後を頼むよ』と言い残して結城は病室を後にした。
政美はベットに横たわる綾部に近付いた。
 覗きこむようにして、顔を近付けたとき、綾部の瞼がヒクヒクと震え、薄く目を開き始めた。
 息をつめるように綾部を見続ける政美⋯⋯⋯⋯。
「⋯⋯菅野さん?」
「⋯⋯⋯⋯」
「夢かと思った」
綾部はクスクスと鼻で笑う。
「⋯⋯」
 じっと見続ける政美に気付き、綾部はレースにも来なかった綾部が何故ここに居るのか気付いてしまった。
 周りを見渡すと、白い壁が目を覆う。
 綾部がフイッと顔を背ける。
「綾部くん⋯」
「ごめん⋯」
ぽつりと綾部が呟く。
「⋯⋯⋯」
「俺、菅野さんに酷いことしたと思ってる。だけど菅野さんに嫌われるのは嫌たけど⋯後悔はしてないから⋯それだけそ⋯⋯⋯」
「綾部君⋯」
 向こうを向いたまま、政美を見ようとしない綾部に声を掛ける。
「罰が当たったんだ。きっと⋯」
「どうして?」
「菅野さんの気持も考えないで、⋯⋯あんな事したから」
「⋯⋯⋯⋯」
ポツリポツリと話す綾部の声が、政美の心に響く。
「もういいから⋯菅野さん帰って⋯」
「えっ?」
 意外な言葉を聞いた。
「無理してここに居る必要はないよ」
「無理なんか⋯⋯」
 政美はどう話したら良いか判らず、言葉が途切れた。
 それでも伝えなければいけない言葉が在る。
顔を背け続ける綾部に向かい、政美は口を開いた。
「無理なんかしてないから⋯僕は⋯綾部君の事故をニュースで聞いたとき、一瞬目の前がまっ暗になったよ。あんなに避けつづけていたことも忘れる程に動揺した。⋯⋯乗り込んだタクシーの行き先をも変えて、此処に居るのに⋯⋯⋯綾部君こそ避けつづけていた僕を許せない?」
 政美の言葉に綾部は驚きの目を向ける。
「許せないなんて⋯菅野さんは全然悪くないじゃないか」
 思わず身体を起しかけた綾部が、引きつる様な痛みを訴えた。政美は慌てて起き上がる綾部を止めようと、軽く覆いかぶさる様に、身体を傾ける。
 自分よりもはるかに逞しい綾部の腕をベットに縫い付ける。
そのまま倒れこみ、政美は自分から綾部に唇を重ねた。
 軽く啄むような口付けは重なったときと同様に離れていった。
 もう一度⋯ゆっくりとやさしく雪が降る様にも似た、政美の口付けが綾部に降り注いだ。 驚きに目を見開いている綾部の視線から逃れるように、政美の瞳は閉ざされていた。
『静』と⋯綾部の口唇を執拗に嬲り続ける『動』の相反する二つがこの閉ざされた病室の中で、不思議なハーモニーを奏で続ける。
 何度も何度も向きを変え、時折悪戯をするように上唇を舐め上げる長い口付けが終わった時、お互いの心臓と息づかいは普段の何倍もの時を刻んでいる。
「⋯⋯菅野さん」
「綾部く⋯ん」
さっきまで続いていた時間を確かめる様に、綾部の指が政美の髪に絡みつく。
「もう⋯⋯あんな思いは嫌だ⋯⋯」
子供が拗ねるような口調で政美が呟く。
「⋯⋯こんな思いは初めてで⋯⋯絶対に⋯二度としたくない。⋯⋯正直言ってまだ僕の気持は整理出来てない。でも! 僕の前から綾部君が本当にいなくなってしまうのは、絶対嫌だ!」
 優しく綾部の指が、政美の髪を撫ぜる。
「心より身体は正直かもしれない⋯⋯」
 ぽつりと洩らした政美の瞳から涙が雫れた。
「菅野さん」
 緊張し続けた身体がゆっくりと溶かされていくのを政美は感じた。そのまま綾部の枕元にコトリと頭をのせて、眠りに落ちていく。
 降り続いていた雨が小雨に変わり、晴れ間を見せ始めていた。
 窓の外には、雲の隙間から微かに朝日が覗き始めた。
 綾部は眠りに落ちてしまった政美の顔を覗きこみながらゆっくりと目を閉じた。
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