天使の誘惑

BACK | | TOP

第1話

 秋晴れの空が眩しい午後。


 それは突然の出会いだった。
 珍しく平日に休みをとった菅野政美は、自分のアパートから五分程の所にあるコンビニへと向かっていた。
 気軽な一人暮らしを始めてから、既に8年の月日が流れている。
大学生になって直ぐに親元を離れ、この地にやって来た。
 都心から少し離れてはいるが、静かな街並みが結構気にいっている。
そんな街を散歩がてらにコンビニへ向かうのは休日の日課になっていて、平凡な日常の中で唯一の楽しみでもあった。
 コンビニへ着くと適当に商品をカゴに投げ入れ、レジに向かう。
 特に不精な訳ではないが、仕事仕事の毎日では買物もままならない。その為、休日になると、ついカゴ一杯の買物をしてしまうのだ。
 レジを通って会計を済ませると、元来た道をゆっくりと引き返す。
 コンビニの前の公園で緑を満喫しながらゆっくりと歩いていくと、自分のアパートの前を通る道に出る。
 何気なく歩道から車道に足を踏み出したとき、辺り一帯に響き渡るような音を立てて、一台のバイクが政美の前で急ブレーキをかけた。
 ぶつかると思った瞬間、もの凄い音を立てて、バイクが転倒する。
バイクを運転していた人が投げ出された。
 政美を避けて転倒したのは明確だった。
 気付いて政美は手に持った袋を放り投げ、倒れている人の脇に膝をついた。
「大丈夫ですか?」
そういってうつむいたまま倒れている人の肩を抱き起こした。
 抱き起こした顔を覗き込むと、自分よりも精悍な顔立ちをした青年だった。
髪型は判らないがフルフェイスのヘルメットのシールドから覗く彫りの深い鼻筋と、目を閉じていても判る程の切れ長の瞳に政美は目を離すことが出来なかった。
「⋯⋯ってぇ⋯⋯⋯」
地面に付いていた指がぴくりと震えた。
「大丈夫?」
 覗き込む政美に気付いたように、ゆっくりとした動作で上半身を起こして、軽く頭を振ると顎にかかっているベルトを外し、ヘルメットを脱ぐ。
 窮屈なヘルメットの中に抑えつけられていた髪が、音を立てて現れる。
真中で分けられた栗色の髪をぱさぱさと軽く振ると、左手で髪をかき上げながら、政美に視線を向けた。
「馬鹿野郎! 道の真中をボーッと歩いてるなんて、死にたいのか!」
 政美が目を向くほど、突然に青年は怒りだした。
あまりに突然で、正美は考えることもできず反射的に、
「すみません」
と謝った。
 しゅんとした正美の様子に、青年はそれ以上いうことが出来なかった。
「もういいよ。今度から気を付けなよ」
 そういって立ち上がろうとした途端、青年はバランスを崩して、政美の上に倒れ込んでしまった。
「ごっ⋯⋯ごめん」
「いえ、それより怪我してるんですよね⋯俺の家すぐそこですから手当てだけでも⋯⋯」
「いや⋯でも⋯」
「俺のせいで怪我させちゃったんですから」
 青年はじっと政美を見詰めると、ふうっと息を吐きだしながらゆっくりとうなづいた。
 とりあえず、バイクは公園の横の駐輪場に置き、公園から五百メートルほど先の政美のマンションまでやって来た。
「狭いところですけど、適当に座って下さい」
そういわれた部屋を見渡すと、玄関の直ぐ横がキッチンになっていて、真っ直奥を見ると、全体が見渡せる様なワンルームマンションだった。
「俺でもこんな部屋に住んでないぞ」
 狭い部屋の中を見渡しながら、ぽつりと呟いた。
 救急箱を抱えた政美が、青年をこの部屋の中で、自慢げに存在を誇示しているベットの上に座るように勧めた。
「えっと⋯まだ名前を聞いていなかったんだけど、教えて貰えます?」
「あ? そうだったっけ?」
「ええ」
軽くうなづきながら、青年に視線を合わせる。
「綾部⋯⋯綾部浩司だ」
「綾部君ね、俺は菅野政美。俗に言う一介のサラリーマンです。綾部君は高校生? それとも大学生?」
「しいていえば⋯大学生」
「⋯?⋯」
不思議そうな目で見る政美の瞳に、綾部は答える。
「俺⋯すっごくバイクが好きで、ずっとレースの事しか考えられなくて⋯⋯⋯大学に席は置いてるけど殆ど登校しないでレース巡業してる。学校、私立だからレポートと試験だけ受ければなんとかなるしね」
そういって政美ににっこりと笑いかけた。
 満面の笑みを受け止めて、政美は一瞬、息が止まりそうなほど心臓が高鳴った。
それが何なのか判らないが、知られてはいけないと政美は本能的に感じとった。
「綾部君、痛いところいってくれる? 怪我してるところに消毒と湿布するから」
綾部の足元に座りこんで見上げるようにしながら、救急箱を開ける。
「足首以外は特にないよ」
「そう? どっちの足首?」
「右⋯⋯」
綾部にいわれた方の足を自分の膝に抱え上げて、ジーンズをたくし上げようとする。
 綾部のジーンズはバイクの運転に支障をきたさないように、ブーツの中にすべて治まるタイプでスリムに近いストレートタイプ⋯⋯。
政美はなんとかしてジーンズの裾をたくし上げようと試みてはみたが、無駄な努力になってしまった。
「綾部君このままじゃ手当て出来ないよ。申し訳けないけど、ジーンズ脱いでくれないかな?」
「えっ?」
「裾が上がらないんだ」
まさか初めてやってきた家でジーンズを脱ぐことになるとは、思ってもみなかった。
 もちろん、男同志と割り切っているが、さっきから自分の足元に膝まづく政美の顔を上から見詰めているとなんだか⋯⋯いや、政美が男であることを否定しそうな程、整った顔立ちをしているのに気付いた。
 下を向いた視線を縁取る長い睫毛、その瞳にかかるさらさらと音をたてそうな漆黒の黒い髪。鼻筋はとおっていて、少し小さめの口唇が色白の肌に飾りを添えていた。
「⋯? ⋯どうしたの? 綾部君」
 考え込んでいる綾部を、不思議そうな顔で下から覗き込む。
一気に顔に熱が上がったように、顔が真っ赤になるのに気付いた綾部は自分の顔を片手で押さえて、政美から顔をそむけた。
「なんでもない!」
そういって立ち上がると、ジーンズのボタンに手を掛ける。
じっと見詰めている政美の視線に気付く。
「すまないけど向こうむいててくれよ。見られてると何だか恥ずかしくってサ」
鼻の頭をかくようにしながら照れくさそうに、視線を天井に向けながら政美に言った。
「あっ⋯ごめんなさい!」
政美は、くるりと背を向けてじっと待つ。
ごそごそとした音をたてながら、綾部はジーンズを脱いでベットに腰を掛けた。
キシッと音をたてて、ベットが綾部の体重を受け止める。
「もういいよ」
綾部の声にゆっくりと振り向く。
「ごめんね。足首痛めてるのに動かすようなことさせちゃって⋯⋯」
「いや⋯⋯」
 気まずさを言葉に変えるように会話をしてみた。
それでも部屋の中の空気は変わることなく、時間だけが流れ様としていた。
ハッと気付いたように政美は綾部の足首を自分の膝にのせ、腫れ上がった個所に湿布薬貼付る。一端、絆創膏で固定してから包帯を巻き始めた。
 足の甲から足首までを湿布したため、包帯を巻くには素人ではかなり難しい。例外にもれず、政美もまたかなり苦労している。
 綾部はベットに腰掛ながら、自分の足を手当てする政美の姿を見下ろしていると、不器用に何度も何度も包帯を巻きなおす姿に思わず、笑みがこぼれた。
「菅野さん、もしかしてとっても不器用なんじゃない?」
「えっ」
かっと顔を赤くして、肯定を示す。
「ぷっ⋯⋯ずっげぇ正直!」
身体を二つに折ってお腹を抱えながら笑い始める。
 ますます顔を赤くしてうつむいていく。
 綾部はひとしきり笑った後で、自分の足を膝に置いたまま手を止めてうつむいている政美に気付いた。
「⋯ごめん⋯⋯からかったわけじゃないんだ。ただ⋯⋯なんだか菅野さんがかわいくってサ⋯あ⋯いや⋯本当に俺より年上なのかななんてさ⋯⋯⋯本当にごめん」
「もういいですよ」
そういって手を動かし始めた。
「ごめん」
「もういいですってば⋯⋯本当のことだし」
ちょっと不機嫌な口調で綾部に言った。
「さてと、不器用な俺のすることですからこの辺で許して下さいね」
ぽんと軽く包帯の上を叩く。
「いってぇ!」
「ごっごめんなさい」
慌てて具合を確かめる。
「うそだよ」
 綾部のからかいになかなか慣れない政美は、ふいっと顔を背けて救急箱を持って立ち上がる。
「⋯⋯⋯」
ちょっと気まずくなって綾部は視線を部屋中に巡らせる。
 ワンルームマンションの片隅に、この部屋には高価すぎるパソコンが目に入った。
「菅野さん、あれ菅野さんの趣味?」
「えっ?」
思いがけない問いかけに政美は振り向いた。
「あれ、あのパソコン」
「ああ⋯⋯あれは趣味と実益を兼ねてるかな」
「菅野さんサラリーマンなんだろ?」
「うん、でも人が足らないとシステムのセクションに手伝いにいくんだ。こうみえても技術関係の専門学校に行ってたんだ」
「ふうん、でいつもは営業やってんの?」
「そうだよ。内容を説明できる営業ってこと」
「へぇっ⋯優秀なんだね。菅野さん」
「ははっ」
「でも菅野さん、営業成績はあんまり良くないんじゃない?」
「!⋯なんで判るの!!」
「だってその性格じゃぁね」
綾部の一言にふうっと肩を落とした。
「そうなんだよね。対人恐怖症ってほどじゃないんだけど、初対面の人が苦手で⋯⋯上司にもいつも言われてる⋯⋯その上、童顔だし」
最後の言葉は聞き取りにくいほどの小声だった。
「菅野さん、俺たちも今日逢ったばっかりだってこと判ってる?」
「あっ⋯そうだね。でも出会い方が普通じゃなかったし、綾部君が年下で話しやすいってことじゃないかな」
「そう?」
「うん」
政美の返事になんだか気を良くした綾部は、すっくと立ち上がった。
「そろそろ帰る」
「大丈夫?」
「へーき、へーき」
心配そうな顔で立ち上がった綾部の横に立つ。
「また⋯怪我の様子見せに来てくれるかな、綾部君」
「いいよ」
「俺、たいてい家にいるから⋯」
「ああ、またお邪魔させて頂くよ。菅野さん⋯⋯あっ!」
「えっ、何?」
「くれぐれも車には気を付けて下さいね。じゃあ!」
 政美に反論をさせる時間も与えずに、綾部は政美の部屋を後にした。
BACK | | TOP
Copyright (c) 2013 Akira Kousaka All rights reserved.

-Powered by HTML DWARF-